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私の歩んできた道 第1回

コンピュータの歴史と軌を一にする人生

東京大学名誉教授、特定非営利活動法人ウェアラブル環境情報ネット推進機構 理事長 板生清

はじめに

私は本年72歳になるが、まさにコンピュータと同い年である。大袈裟に言えば、コンピュータの誕生からずっとつき合ってきたようなものである。このような「宿命」を抜きにしては、私の歩んできた道も語れない。今やコンピュータは、大は京コンピュータから、小はウェアラブルコンピュータにまで進化してきた。
 私は大学院を出て、日本電信電話公社(現NTT)の研究所に入り、当時の主力であったテレックス通信の高速化を目指した、データ通信サービスの主力機器であったキーボードプリンタの開発を担当した。これが日本の津々浦々まで導入されて役に立ったことは、社会と技術のかかわりを実感した最初の経験である。電電公社に入社した1968年は、アランケイがパソコンの概念を打ち出した年であったが、プリンタの実用化を完成させた1971年は、マイクロプロセッサが誕生した年であった。
 その後、私はマサチューセッツ工科大学(MIT)に留学することになった。ここでの研究は、後にまた紹介するが、ランダム振動の解析と応用であった。ちょうどこの頃、1976年アップル社が設立され、翌年、新しいパソコン、アップルⅡが誕生した。帰国して、現パソコンシステムの元祖となるようなテレックス通信の研究に従事し、文字通信から図形までを通信する機器の研究開発と、プロトコルの国際標準化に従事した。

研究開発マネジメントの時代

1979年には携帯電話サービスが始まり、ソニーはウォークマンを発表した。1982年には、電電公社の巨大コンピュータシステムの記憶装置の研究開発の責任者となり、大容量記憶システムを実用化し、全国に導入した。この1982年は光ディスクの元祖であるCDが発売されている。
 さらに、書き換え可能なコンピュータ用光ディスクの開発プロジェクトを提案し、国内各社と共同で研究開発し、実用化した。ここでは、国際標準をつくることも大変大きな担務であったが、当時の通産省の研究所とメーカ各社とのチームをつくり、日本発の書換型光ディスクの世界標準を創った。ちょうど1989年に、米国のモトローラ社では超小形・軽量の携帯電話マイクロタックが発売され、小形が得意のはずの日本勢は慌てて追従した頃であった。
 私は1988年からNTTの記憶装置研究開発の責任部局である記憶装置研究部長として、磁気ディスク装置、超小形光ディスク装置、次世代の記憶装置などの研究企画・開発・実用化業務を担当した。
さらに1990年には、研究企画部長となって、NTT全般の新しい研究の立案の責任者となった。1991年にはマーク・ワイザーがユビキタスコンピューティングの概念を提唱した年である。私はここでマイクロセンサをつかったセンサネットワークの研究を始めた。自然と人間と人工物の3者のコミュニケーション界面を円滑にするためには、マイクロセンサを使って、万物が発信する情報を自動的に検知し、これを通信して、データベースに蓄積するという概念「ネイチャーインタフェイス」を提唱した。これを実現する手段としてのマイクロセンサ、微弱無線、大容量データベース、および情報処理表示ソフトウェアの研究計画を提案した。しかし、まだドコモの携帯ビジネスが軌道に乗っていなかった頃であったため、諸般の事情でネイチャーインタフェイス研究所設立案は承認されなかった。

NTTを脱出し、大学へ

そこで私は、1992年NTT研究所を辞して、中央大学に移り、若い学生達と基礎的なセンサの研究に取り組んだ。
 1993年は米国ザイブナー社が軍用のウェアラブルコンピュータMAIを出した年である。さらに1996年にはウェアラブルワークショップがDARPA(米国防総省)の後援で開かれ、ボーイング社がシアトルでウェアラブルカンファレンスを主催し、いよいよコンピュータはウェアラブルの時代に突入した。
 この年、私は東大に移籍し、精密機械工学科でマイクロマシンによるマイクロセンサ、およびダイナミックス、さらにはウェアラブルコンピュータの研究に取り組んだ。1998年には日本でも日本時計学会主催のウェアラブル情報機器シンポジウムを開いた。ちょうどメガネ型ウェアラブル(ヘッドマウントディスプレイ)、腕時計型コンピュータなどが発表された年でもある。
 2000年になると、手のひらサイズの携帯情報端末(PDA)の普及が進み、「パーム元年」と言われ、約100万台が普及した。世界のパソコンユーザの2%に過ぎなかったPDAが、2004年には400万台と急成長し、さらにこの波は現在のスマホにまでつながってきている。

ウェアラブルの時代を拓く

私は2000年に、ウェアラブル環境情報ネット推進機構(WIN)をNPO法人として設立し、産官学でウ ェアラブルセンサシステムの研究開発を推進する体制をつくった。ここでは、企業単独、大学単独ではできない社会のニーズを取り入れながら、サービスシステム開発を行うという仕組み「社会連携」を実地に移す取り組みを実現した。第1は人間にセンサをつけて、健康状態を常時モニタリングするシステムの開発をIPAの競争的資金を獲得して、2002年に着手した。さらに超小形(11g)の生体センサの開発を進め実用に供した。2007年にはIEEEでもセンサの研究が盛んになり、私も招待されて基調講演を行い、ヒューマンレコーダという概念を提唱し、生体センサのさらなる開発をグローバルに展開するところまできた。 次回からは文中の下線のキーワードに関する研究面の話をしたい。

つづく